【インタビュー】マルチクリエイターが語る。音楽・映像・本制作に共通するもの| マルチクリエイター・黒沢永紀

音楽、映像、本。さまざまなメディアを股にかけて、作品を発表してきたマルチクリエイターの黒沢永樹さん。クリエイティブにおける「何でも屋」である黒沢さんのこれまでの作品は、どれも知らず知らずのうちに歴史に、紐付いてきたものだった。そのきっかけと、生き方に迫る。

歴史と引き合うクリエイター活動

―早速ですが、これまでの活動や、現在されているお仕事のことなど教えてください。

黒沢永紀さん(以下、黒沢) 会社に勤めている、というような仕事の形はとっていなくて、基本的には本やDVD、CDなどの作成をしています。マルチクリエイターの何でも屋というところですかね。ライフワークとしてやってきたことが、そのままビジネスワークにつながっているような感じです。

―黒沢さんのお名前をネットで拝見させていただいたとき、軍艦島に関する著作を多くだされていることを知ったのですが、軍艦島にスポットを当てた理由はなんだったのでしょう?

黒沢 軍艦島に最初に惹かれたきっかけは、国会図書館でした。17年ぐらい前に軍艦島に行く機会があって、そのときの印象は、ただの瓦礫の島という感じだったんですよ(笑)

だけど当時、軍艦島に関するDVDはまだひとつもなく、僕が仕事としてつくることになって。

実際に軍艦島を調べることになったんですけども、地元の図書館にいっても軍艦島に関する資料がとても少なかったんですよ。手軽に見られる資料がなくて、結局、たどりついた先が国会図書館でした。そこにあった軍艦島の資料や文献を読んで、「この島すごいぞ」と思うようになって。いまは瓦礫の島だけど、かつては炭鉱として栄えて、いろんな歴史があったことを知りました。でも、この事実を当時の多くのひとは知らなかったんですよ。歴史に惹かれると同時に、それが仕事にやりがいをもったきっかけでもありましたね。

―黒沢さんと軍艦島との出会いには、そんなエピソードがあったんですね。

黒沢 もうひとつ軍艦島で面白いと思ったのは、今でこそ世界遺産にもなっている島なのに、当時は誰も知らなくて、本も少なかったという事実です。同じ世界遺産でも、たとえば富士山に関する本なんてゴマンとある。本来なら世界遺産にもなる資質を持っていた場所なのに、軍艦島に関する本を誰もだそうとしなかったのは、驚きですよね。だから自分がつくろうと思ったのかもしれません。

―確かに、世界遺産になってようやく軍艦島という存在が周知されるようになった感覚がありますよね。そういう意味では、黒沢さんは軍艦島の開拓者といったところでしょうか(笑)

黒沢 開拓者というほどではないかもしれませんが、世界遺産になる以前に興味を持っていて、調べていたのは間違いないです。僕のほかにも、ただ形にしていないだけで、軍艦島に興味を持っていたひとはいたと思いますよ。

世界遺産にする動きは2003年頃から始まっていて、その決起集会に参加したこともありました。

軍艦島全体が世界遺産になっていると勘違いされがちですけど、実は違うんですよね。本当は軍艦島のなかの一部が世界遺産になっていて、しかも島の割合からすれば、その地域は5%ぐらいの広さです。

―さすがにお詳しいですね!

黒沢 興味を持って調べましたから(笑)

―これまでの活動も、歴史というものに紐付きながら創作をしてきたのでしょうか。

黒沢 考えてみれば、そうですね。偶然かもしれませんが、音楽制作の活動でも歴史と関係した仕事が多かったです。

テレビのドキュメンタリーで法隆寺を取りあげる番組のBGMとして音楽をつくったり。ドラマの陰陽師など、歴史絡みでのサントラの仕事がありました。

―音楽制作のなかで、歴史絡みの仕事が増えていったのは、どういったきっかけがあったのでしょう?

黒沢 最初にデモテープをつくって、各所に送りました。で、某テレビ局から法隆寺に関する番組をつくるから、それに合わせた音楽をつくらないかと仕事を受けました。僕の音楽が、そういう歴史ものが合うと判断されたんでしょうね。実際に法隆寺にもいって、そこで経て感じたことを元に音楽を創りました。放映後は、結構問い合わせがあったみたいで、それがきっかけでCDにもしていただきました。

社会人としてデビューし、仕事をするきっかけになったのは音楽活動からでしたね。何か決まった道を目指してやってきたというわけではなく、いただいた仕事を引き受けていったら、現在のようにマルチクリエイターの何でも屋になった。

―音楽以外での活動をするようになったのは、何か思うところがあったのでしょうか。

黒沢 テレビ局からの依頼で、毎回サントラを何十曲と送るんですけど、実際の放映時に採用されて使われた音楽と、自分のイメージしていた曲が違っていたことが何度かあったんですよ。そのシーンのために用意していた曲と違うのに、とか、自分だったらこうする、と思うようにもなって。

そんな矢先に、軍艦島に関するDVDをつくるというひとからお話をいただいて。そこで自分の指定したシーンに、自分の作った音楽をはめこむということが、やっとできるようになりましたね。

同時に、そのあとは本をだすことになったんです。軍艦島のDVDが45分なんですよ。でもその45分という長さだと、自分が調べた量に対してあまりにも情報が少なすぎて。それを補足するために、自分でウェブサイトを作ったんです。

そのウェブサイトの一部分を、出版社のかたが興味を持ってくださって。で、軍艦島に関する本も出版するようになりました。

だから本当、流されるままにというか、気づいたら現在に至っていましたね(笑)

育ってきた町のことを知らない自分がいるのが嫌だった

―黒沢さんがサイトを立ち上げた当時って、いまほどきっとネットは普及していないですよね。インターネットの情報が少ないなかで、本にできるほどの分量の情報を調べられたことが、驚きです。

黒沢 当時の情報収集の手段は、やっぱり図書館が主でしたね。ネットが普及したいまでも、図書館での情報収集はするようにはしていますよ。

逆にいま本をつくるなら、ネットの5ページ目、6ページ目とか、一般のかたがあまり見ないような情報まで抑える必要はありますよね。基本的な情報はもちろん載せつつも、誰もが知らないような、僕が書いた本で初めて知ったと思ってもらえるような情報を載せていきたいです。本をつくるというだけではなく、ひとつの物事を調べるだけでも、同じような姿勢でいるようにはしています。

―なるほど。物事を深く調べられる黒沢さんだからこそ、『東京ディーブツアー』のような企画の街歩きができるわけですね。この流れで話が変わりますが、東京の街歩きをしようと思ったのは、どういったきっかけがあったのでしょう?

黒沢 軍艦島を調べていたとき、その過程で元島民のかたと話す機会があって。そのときの島民の方から感じたのが、強烈な故郷愛だったんです。故郷である軍艦島のことを熱く語ってくださる島民の方を見ていくうちに、ふと、自分の故郷のことを考えるようになりました。僕は生まれが東京なんですけど、そんな自分は、東京のことをどれだけ知っているだろう。どれだけ他人に語ることができるだろうと思って。

軍艦島のことをこれだけ調べて、育ってきた町のことを知らない自分がいるのが嫌だったので、それから徐々に街歩きをして調べていくようになりました。それが続いて、ツアーとして企画、開催するようになったんです。

こうして改めて振り返ってみると、自分のやってきたことって、ぜんぶどこかでつながっていたんですよね。

中学校のころ、給水塔に侵入していたりとか(笑)。貝塚を掘って土器を探してみたりとか。蓋をあけてみれば、昔から歴史のあるものには惹かれていたのかもしれません。

クリエイティブの幅を広げて行くために、”ライブ”を楽しむ

―黒沢さんのこれからのビジョンは、なにかありますか?

黒沢 音楽、本、映像と、これまでいろんなメディアを使って情報を伝えてきました。それが自分のできることだと思うし、やりたいことでもあるので、それを続けていきたいですね。

メディアの幅をどうやって広げられるかは、いつも考えていることではあります。その一環として、今回ainiさんからお話をいただいて、引き受けたのもあります。現地にいって歴史や物事を説明するような、ライブ的なことをこれまでしてこなかったので、楽しみです。

―最後に失礼ですが、もしも余命が一ヶ月だと言われたら、黒沢さんに後悔はありますか?

黒沢 ありますね。一ヶ月だろうと一年だろうと、なんなら十年でも足りないくらいです。後悔だらけになるでしょうね。さっき言ったような目標もありますし、とにかく、興味のあることにたくさん触れていきたいです。

興味のあることが尽きたときにようやく、死んでも後悔がないと言えるようになるかもしれません。

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